「自分には才能がないから」
「結局あいつには敵わない」
「運がなかった。仕方ない」
色々な分野で、こういう話を聞くことがある。
けど、僕はこんな話が本当に大嫌いだ。
僕は才能とか、敵わないとか、運とかそんなもんにとらわれたくない。
これは、このブログのタイトル「いつから俺ができないと錯覚していた?」につながる考えである。
成功と失敗とは
僕は成功するのにはしっかりとした理由が必ずあると思っている。
というか、それはみんなわかっていると思う。
何かに取り組むとき、成功と失敗をわける線が必ず存在する。
その線を上回れば成功だし、下回れば失敗する。
もしかしたら人によってそのラインが変動することがあるかもしれないが、客観的視点に立てば、物事の成功と失敗のラインはある範囲に収束するはずである。
そして、このラインを越えられるかを決める要因は、目的を達成することができる能力が備わっているかどうかである。
究極的に言えばこれが足りているかどうかという話だけなのである。
決まったラインに対して、どの程度の労力と時間を投下すればよいのかは人によって変わる。
しかし、どのような言い訳を取り繕ったとしても失敗した者は結局能力が足りていなかったというだけなのである。
運が悪かったとは言うけれど
失敗するたびに、なにかにつけて運が悪かったと言う人がいる。
例えば受験で、「重点的に勉強した場所がでなくて、全然結果がでなかったよ。運が悪かった」みたいな話があったとする。
確かに運が悪かったね、と思う人がいるかもしれない。
だが、僕が思うにそれは運が悪かったのではない。
君が合格するために必要な能力が足りていなかっただけ。
僕は究極的には「運」なんてものは存在しないと思っている。
「運」というのは物事の原因と結果の繋がりが見えにくいものに対して人が勝手に「運」という言葉でまとめてしまっているだけなのだ。
だから、運が悪かったという前に自分の能力を上げることを考えてほしい。
成功する者は常に考えている
先に「運」という話をしたが、同じように「発想力がない」ということも聞く。
僕もこれは才能に依存すると考えていたことがあったし、自分にはないものだと思ってしまっていたこともあった。
だけど、いや、だからこそ僕は知りたかった。
発想力があるのは本当に天才だけなのかと。
僕にはできないことなのかと。
学生である僕は、その分野の専門家である教授に話を聞いた。
僕がなぜ成功していないか。
教授や他の研究者達の発想はどこから生まれてくるのか。
そして、そんな僕に対して教授は言った。
「君は常に研究のことを考えている?」
と。
研究者たちは、脳の一部の領域が研究のためだけに存在し、何をしていてもバックグラウンドで処理が行われているのである。
僕はこの話を聞くまで研究がうまくいかないこと、発想が生まれてこないことに勝手に憤りを感じていた。
これほどまでに時間と労力を投資し、結果が返ってこない。
しかし、この話を聞いて再度自分に問いかけた。
はたして自分がその域に達しているのか。
答えはすぐに出た。
「圧倒的に足りていない」
僕は自分で言うのもおかしな話だが、割と要領がいい方である。
ある程度のところまではすぐに到達する。
しかし、それがトップまでたどり着くことはほとんどなかった。
それでも僕はこのスタイルでも自分に合うものを見つければ、少ない労力で成功を収められると思っていた。
しかし、現実は全く違うものだった。
成功している者は、常に考えているのだった。
常に考えているからこそ、他の人が思いつかないような発想が生まれるのである。
冷静に考えれば単純な話であった。
24時間常にその事を考えている者と、1日10時間しか考えていない者に差がでるのは当たり前のことである。
1日で考えても14時間、1年に換算すると5110時間の差が生まれているのである。
「結局発想が生まれなきゃどうにもならない」
「なぜ失敗するんだ」
と考える前に、お前はその言葉を発する資格があるのか?と自分に問いかけてほしい。
こういう人は、きっと僕のように足りていなかっただけなのだよ。
まとめ
僕は自分がうまくいかないことを、才能がないとか運がないとか、そんな風に思いたくない。
それは自分の限界を自分で決めてしまうことだから。
綺麗事かもしれないけど、自分に限界があるなんて思いたくないし、自分には絶対できるって信じている。
そんな気持ちを忘れないために今日も自分に問いかけたい。
「いつから俺ができないと錯覚していた?」